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プロジェクトリーダーから(TRONWARE VOL.100)

創刊100号刊行にあたって

 TRONWAREの第1号が生まれたのは、1990年2月創刊ということで、実際に出たのは1月だと記憶している。 1990年というと最初の構想から10年、プロジェクトが発足してからだと6年くらい経過していたころで、ちょうど成果が少しずつ出始めていた。 そもそも、TRONプロジェクトのはじめの構想では、今で言うユビキタス・コンピューティングの概念を「超機能分散」と呼んでいた。 “超”は“非常にたくさん”とか“ものすごく”という意味で、現実の世界の中に非常にたくさんのコンピュータ要素を分散させて、ネットワーク化し、協調動作させるコンピュータシステムを作るという構想だった。それを基礎的なところから全部押さえていこうという考え方から、マイクロコンピュータのアーキテクチャと組込み向けリアルタイムOS ITRONに関する研究を進め、その成果を世の中に出し始めたのがこの1990年ごろだったのだ。すでに重要となる要素には言及しており、人間と機械の間のインタフェースをつかさどるBTRON、主幹ネットワークを制御するCTRONなどもすでに出していたし、TRONアーキテクチャの根幹となっているオープンアーキテクチャは、一貫して進めていた。相互接続のための保証性を与えるトロン協会も1988年に設立されていた。

 TRONプロジェクトを始めたころは、「構想だけでモノなし」とも言われたが、それはむしろ構想や仕様の段階からオープンに公開した結果であった。そういうオープンなやり方が一般的でなかった時代だから、仕様はモノと同時に出て来るべきという風潮があったのだ。それが、次第に製品もできてきて、プロジェクトも広く知られるようになった。 ゼロから新しいアーキテクチャを作っていくためには、基礎的研究プロジェクトと応用プロジェクトを同時に進め、応用からのフィードバックをかけるべきだという考え方を打ち出したのもこのころだ。TRON電脳住宅の実験などもその一環だった。このころ、世の中はバブル経済の真っ最中。

 そして1989年には米国の通商代表部(USTR)の貿易障壁報告書のリストにTRONが入るという、いわゆるスーパー301条事件が起きた。この事件については何回も述べているのでここでは触れないが、情報の誤解により米国政府との緊張が高まった微妙な時期だった。

 しかしこのときむしろ問題だったのは国内の反応であった。その意味で情報の発信の不足を痛感し、前向きの発想でむしろ国内向けの情報発信を強化しようというテコ入れの一環として生まれたのがTRONWAREだった。

 海外向けの情報発信のほうは、むしろ最初から気になっていたこともありTRONプロジェクトでは最初からIEEE MicroやByte、Microprocessors and Microsystemsなど 海外の著名雑誌にもできるだけ寄稿を行い、1986年から始まったTRONプロジェクトシンポジウムを翌年の1987年には国際シンポジウムに格上げし、世界から人を集めて理解を深められるようになっていた。会議録も国際シンポジウムとなってからは欧州の大手理工系出版社Springer-Verlagから出すようになり、 1990年12月からは米国の権威ある学会であるIEEE Computer Societyが協賛する形で会議が開かれ、会議録もIEEEから出版されていた。

 その思いがあったのだろう、創刊当時のTRONWAREを開いてみると「オープンにしてフリーにして出しているものに対して米国からなぜこのようなリアクションが来るのか」という私のとまどいが現れている。海外向けの情報発信を一生懸命やっていたわりには、日本という極東の小さな島国で一生懸命オリジナリティを追求して新しいコンピュータを作ろうという試みを、世界のコンピュータサイエンスやコンピュータ産業を引っ張っている米国の人々がライバルとして意識するという考えはまったくなかったのだ。TRONをそのまま放っておくと米国のコンピュータ産業に影響を与えるほどの脅威になるという考えは、当時逆立ちしても理解できなかった。TRONプロジェクトでは早いうちから欧米の企業も参加していたから、TRONが排他的でないことは、向こうも本当はわかっていてわざと言っているとしか思えなかった。 今になって思えば、それが現在に至るまで長く続くオープン対プロプライエタリの戦いの「第一幕」だったのだ。

 単なるコンピュータ技術のプロジェクトでなく、コンピュータが私たちの生活の中に深く入り込んでいき、技術だけではなく社会や政治や産業や生活までさまざまなものを巻き込むことをTRONプロジェクトは先取りしていた。今から過去を見ればわかるのに、当時その中にいると全体像がわからない――そういう1990年ごろであった。そしてインターネットの商用開放が翌1991年、ネットの時代の幕開けである。

 そして時が流れ2006年。6月16日の朝、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏がずっと手放さなかったチーフ・ソフトウェア・アーキテクトの座を他人に譲るというニュースが流れてきた。さしあたり会長職に留まるものの2008年には慈善団体の活動に比重を移すという。つまりはビル・ゲイツの引退予告である。ある意味で、パーソナルコンピュータの時代が終わり、本当にネットの時代になっていくことを予感させる出来事だった。

 翌日、あるオペラに招待されたのだが、隣の席が偶然グレン・S・フクシマ夫妻であった。フクシマ氏に会うのは今回が初めてではない。いくつもの外資系企業のトップを経て、現在はエアバス・ジャパン代表取締役だが、1990年当時はあのUSTRの日本担当部長であった人だ。ちなみに橘・フクシマ・咲江夫人も世界最大の人材会社の日本担当代表取締役でマスコミにしばしば登場する。第一幕が終わった幕間、夫妻と音楽や目まぐるしく移り変わっていく世界について楽しく語りあった。

 時がたつのは早く、人も移り、時代はどんどん変わっていく。16年の月日が過ぎ、1990年は歴史のかなたの話になってしまった。今、劇場の暗闇の中「第二幕」の幕が開く。

坂村 健