詳細解説:
日本人のための身体に優しいキーボード「μTRONキーボード」

TRONWARE VOL.103 から一部修正のうえ再掲

TRONキーボードTK1
TRONキーボード「TK1」

* 1 : 『BTRON における入力方式 ― TRON キーボードの設計 ―』
坂村健、「日本語文書処理 7-2」、情報処理学会日本語入力研究会、1986.7.9 (TRONWARE VOL.100に再掲)

『BTRON における入力方式 ― TRON キーボードの設計―』 ( *1 ) によって TRON キーボードの設計がなされたのは 1986 年である。 TRON キーボードは独特の山型の形状、手前中央には電子ペンタブレット、 独特の TRON 配列とかなりユニークなキーボードである。 この設計に基づいて 1991 年には TRON キーボード「 TK1 」が製品化された ( *2 ) 。

* 2 : TRON キーボード「 TK1 」
現在は、販売を終了。
* 3 : たのみこむ
ユーザーからの商品企画案を一定期間掲載し、 その商品企画案への注文が受注達成数に達すると商品化を行う限定受注生産販売サイト
http://www.tanomi.com/

その後、在庫がなくなると、 熱烈なユーザーからの要望で 『たのみこむ ( *3 )』 で TRON キーボード仕様のキーボードが作られたこともある。

「μTRONキーボード」は、TRON キーボードの 21 世紀バージョンとして再度製品化されたものだ。 基本設計は“1989 年 Ken Sakamura”のサインのある図面である。 TRON キーボードをできるだけコンパクトにしてノート型のパーソナルコンピュータにも搭載できるように設計されていた。その設計を基に、身体に優しいTRON キーボードのエルゴノミクスデザインを活かしたのが「μTRON キーボード」である。

物理的配列

キーボードの誕生

* 4 : QWERTY 配列
クワティ配列。キーボードの下から3列目を左から読むとこうなる。

1868 年ショールズによって特許が出されたタイプライタは ABC 順に配列されていたが、 1873 年プロトタイプでは現在のキーボードの英字配列、 いわゆる QWERTY 配列 ( *4 ) とほとんど同様になっている。 翌年レミントン社からタイプライターが発売され、 タイピスト学校でこの配列のタイプライターを操るタイピストを大量に養成したため、 以降現在に至るまでキーボードの配列はそのままになっている。 発売当時から QWERTY 配列は使いやすくないという批判やそれに対する改良案も多数出されたが、 レミントン社のビジネスモデルの成功により、 普及したのは QWERTY 配列のみとなった。 唯一ドボラック ( Dvorak ) の配列は IBM のタイプライタや PC のドライバが提供されたため、 一部では利用された。 TRON キーボードの英字配列はこのドボラック配列を採用している。

機械式タイプライタと異なり電気式のスイッチで構成されるコンピュータのキーボードは、 もっと理想的な形にできるはずだというのが、 基本的な考えである。 1960 年代からキーパンチャーの腱鞘炎、 肩こりなどの頸肩腕 ( けいけんわん ) 障害が職業病として現れてきた。 TRON プロジェクトは、将来コンピュータはあらゆる人が使うようになる。 そのときに問題の起きないようにコンピュータのあらゆる要素 ― ハードウェア、 ソフトウェア、ユーザーインタフェース、データ交換形式 ― に対して優れたデザインをしようという思想である。

山型形状―筋肉の緊張を軽減

TRON キーボードは、 日本人の手のサイズや指の動く範囲を測定し、 それに沿ってキーの物理的配置を定めた。 このアプローチは日本人向けに限定しているわけではなく、 使う人の手のサイズや動きに合わせて設計をするということである。 また、労働医学の研究成果を基に、キーボード盤面が傾斜している。 手前側の傾斜 10 度、左右側の傾斜 10 度となっていて、 これが独特の山型の形状を生み出している。

左右の傾斜の理由は、手を自然な形で机の上に置いてみるとわかる。 手の平は机の面にピッタリとするよりやや立てた方が自然なはずである。 手の平が机の面にピッタリとなった状態は、 内側に回転した状態 ( 内転という ) になっていて、 すでにそれだけで筋肉は緊張した状態である。 左右に10度傾斜させると内転の度合いは低減し、それだけ筋肉の緊張は少なくなる。

「μTRON キーボード」 の裏面には左右のユニットのそれぞれ3カ所に折りたたみ式のスタンドが内蔵されている。 スタンドを利用することによってキーボードの傾斜を3種類 ( 手前 6 度 / 手前 10 度 / 手前 10 度 + 左右 10 度 ) に調整することができる。 特に、手前 10 度 + 左右 10 度の傾斜の場合、キーボード全体全体が高くなるので、 それに合うよう専用パームレストをオプション品として用意している。

左右対称―両手の指の動きにフィット

「μTRON キーボード」は、 コンパクトになるようにキーの物理的配列は直線的に配置している。 従来型のキーボードに一見似ているが、 左右のキー配列は完全に対称になっている。 両手の自然な指の動きにフィットするようになっている。 従来のキーボードは左右対称ではなかった。 おそらく機械式タイプライターのデザインがそのまま踏襲されたからと思われる。

左右分離―身体のサイズにフィット

さらに「μTRON キーボード」は、 左右分離していて、 利用者の肩幅や机との距離により楽な形に調整することができる。 また、キーピッチは標準的なフルサイズキーボードは 19.05mm ( 3/4 インチ ) だが日本人の手にはやや大きい。 μTRON キーボードは 17mm になっていて指の動きも少なくできる。 本来衣服のように人の身体のサイズに合わせてキーボードも S・M・L のように複数種類用意すべきというのが TRON の主張だが、 残念ながら今回はサイズは一種類である。 しかし左右分離できることにより身体にフィットさせる自由度は上がっている。

頻繁に使うキーを親指や人差し指で操作

「μTRON キーボード」をよく見ていただくと、 Enter キーや Shift キーが中央部に移動していることがわかる。 英語では親指 ( thumb ) を不器用という意味に使うが、実は他の指よりも器用な指なのである。 使いにくく弱い指に Enter キーや Shift キーを割り当てるのが適当でないことは自明である。 「μTRON キーボード」では親指や人差し指にこれらのキーを割り当てている。

以上のような物理的機械的配置の変更により、 筋肉の緊張が少なくなり、弱い指の負担も減らすことができ、 頸肩腕障害になる可能性を低減することができる。

なお、一般的なキーボードに慣れた人が「μTRON キーボード」 を打つと上記のような物理的配置やキーピッチの違いにより、 おそらく戸惑うと思う。 多分すぐにはうまく打てない。 おそらく3日程度練習すれば、「μTRON キーボード」に慣れてくるはずだ。

論理的配列

JIS配列

物理的配置に加え、 キーボードの論理的配列、 すなわちどのキーを打つと何の文字が出るかというのも重要である。 QWERTY とかドボラックというのは英語を打つときの論理的配列のことである。 日本語の論理的配列は現在 JIS 配列が一般的に使われている。 1986 年に新 JIS キーボードが考案されたが、 従来のかなキーボードに置き換わることなく使用実態がないとして 1999 年に JIS から新 JIS 配列を廃止した。 新 JIS 配列も日本語の文章を解析して出現頻度の高い文字を強い指かつ使いやすい位置に割り当てるという方針は問題ない。 しかし Shift キーが依然小指に割当られていたため、 弱い指である小指の利用頻度が高いという問題があった。

160万字の日本語解析から生まれたTRON 配列

* 5 : Shift キーと同時打鍵により濁音文字を入力
TRON では親指に Shift キーを割り当て、 シフトするときは同時打鍵をする。 このとき左右の傾斜は重要な意味を持つ。 従来型の左右方向が水平なキーボードで親指同時打鍵すると、 すでに内転している手をさらに強く内転する運動となる。 これは筋肉の緊張を高めることになり、 望ましくない。 左右に傾斜がついていることにより同時打鍵しても内転の度合いは少ない。

TRON 配列は、160万字の日本語の文章を解析して定めている。 現在の日本語の文章は濁点の出現頻度は高い。 ここに注目して打つキーの反対側の手の Shift キーと同時打鍵すると濁音になるという方式を採用した ( *5 ) 。 これにより濁音文字を同時打鍵による1ストロークで打つことができ、 同じ文章を打つときのキーストローク数を減らすために貢献している。

JIS 配列は 4 段目までのキーにかなキーが配置されている。 4 段目はホームポジションから遠く打ちにくい位置である。 一方 TRON 配列では3段の範囲にかな文字が収められているため指の動きが少なくなり、 打ちやすくなる。 「μTRON キーボード」 の TRON 配列では以上のようにして配置された日本語向けの配列と従来の研究により QWERTY より優れている英語向けのドボラック配列が使える。

JIS配列とTRON 配列の切替

μTRON キーボードのキーの刻印は JIS 配列になっている。 すなわち μTRON キーボードは JIS 配列でも利用できる。 特定のキー操作で JIS 配列と TRON 配列の間を切り替えできるようになっている ( *6 ) 。

* 6 : TRON 配列への変更
Windowsでの利用には、専用ドライバのインストールが必要。 詳細は、製品仕様参照。

タッチタイピングの習得方法

キーボードの操作はキーボードを見ないで打つタッチタイピングを基本とする。 しかし、タッチタイピングを習得していないキーボード初心者が見ながらでも 「μTRON キーボード」 を打てるように JIS 配列の刻印としている。 TRON 配列を利用する人は当然タッチタイピングをマスターすることになるから刻印は必ずしも必要ではないという考えだ。

* 7 : 別のシートに印刷した刻印を見ながら、キーは手探りで打つ
「μTRON キーボード」には、 「キーボードトレーナー」と呼ぶTRON 配列を印刷したシート(紙鍵盤) PDFファイルが付属している。

タッチタイプを習得する場合、 守るべき基本は、 キーボードを見ないことである。 別のシートに印刷した刻印を見ながら、 キーは手探りで打つ ( *7 ) 。 したがって、キーボードの刻印はタッチタイピングの習得には邪魔なくらいなのだ。 初心者や従来の JIS 配列を打てる人が新しい配列のタッチタイピングがひととおりできるようになるまでにはおそらく 3 週間程度の練習を要する。 「μTRON キーボード」 を使えるようにするにはこの練習だけは避けて通れない。 しかし、それを越えれは身体に優しい「μTRON キーボード」の優れた点が見えてくるはずだ。

使い心地のよい打鍵感触

キーボードの価格はPCの普及とともに格段に安くなっている。 このためかタッチが悪く使いにくいキーボードも見受けられるようになった。 「μTRON キーボード」には、 タッチのよさと信頼性、 耐久性の要求される業務用キーボードに使われる、 無接点静電容量式スイッチを使っている。 キーの底まで押し付けなくても入力ができるため、 指に対する衝撃も少なく軽いタッチで入力が行える。 価格的にはキーボードとしては高価な部類に属するが、 お気に入りの万年筆のように良いものを永く使っていただきたい製品である。